ヒロシマ

昨日、テレビ番組でアメリカの教育で第二次世界大戦における原爆の位置づけみたいなことをやっていた。
アメリカでは戦後60年にわたって原爆を讃えるような教育がなされていたとのこと。
投下国と被爆国の違い、それを仕方ないといって割り切れるか割り切れないか、または戦勝国と敗北国の違いがその違いを生み出しているのか、その教育に残念だと思うと同時に、日本でも朝鮮や中国などのアジア諸国からは侵略国家として同じような感情をもたれているのだと感じた。
ともあれ、アメリカに強く平和の悲惨さを訴えてもいい、原爆の、核兵器のむごたらしさをもっと訴えてもいい、そう感じてしまう。
数年前、8月6日の原爆投下の日に広島に行く機会を得た。すごく暑い日だった。
街は静寂に包まれて、あらゆるところでミュージシャンが平和を歌っていた。
国籍も人種も関係なく、空に浮かぶ雲が、きのこのように上空に舞い上がらないことを願い、その写真に吸い込まれていた。
8月6日という日は以前訪れたときの広島ではなかった。平和を願う「ヒロシマ」だった。
平和式典では消え入るような声で紙を読む小泉首相と、大きな声で空へ平和を叫ぶ子どもの対比が印象的だった。
8月6日という日に広島にいるということは人生観を変えると思う。
もっと多くの人に広島に行ってもらいたい。静寂の中に流れる平和を見ていただきたい。歌を聴いていただきたい。
そういえば小学校のとき「はだしのげん」が教室に置かれていたのはこういう意味があったのかなと思った。いい学校に通っていたのだと改めて感謝した。
明日は8月6日、兵器のない平和を願おう。